ママの体験シェア会を開催しています。
オンライン開催なので全国どこからでもご参加いただけます。
子供のことで諦めないで!なりたい自分にいつでもなれるよ。
2024年現在、3人のお子さん(11歳長女、9歳長男、3歳次男)を育てる中村美和さん。
沖縄県出身、東京在住。
長男は85万人に1人の難病・重症心身障害児として生まれ、24時間介護が必要な状況だった。介護育児で忙殺される日々から自分を取り戻し、「自分のために生きる」選択をしていく。
妊娠中にわかった長男のこと
中村さんは、長女が2歳の時に重度障害を持つ長男を妊娠出産。
妊娠8か月ごろ、胎児の手足が短く成長が遅いことから「何かおかしい」と医師に言われ、たくさんの検査を受ける。しかし結果はすべて陰性。「何かおかしいけれど、何かはわからない」状態で出産をむかえることになる。
この状況から中村さんは「実家で体制を整えたい」と思い、2歳の長女を連れ、沖縄での里帰り出産を決意。
「飛行機に乗れるぎりぎりまで東京にいました。」
また、長男妊娠中の中村さんのお腹は「双子を妊娠しているかのような大きさ」だったそう。
当時は原因がわかっていなかったけれど、「長男がお腹の中で羊水を飲むことができなかったから、どんどん羊水がたまっていく状況だった」と、出産してからわかった。
お腹が大きい為、お腹の張りが頻繁に起こり、張り止めを飲んでなんとか過ごす妊婦生活だった。
沖縄で里帰り出産
沖縄の大きな病院で出産することが決まる。
妊娠36週目になり、あと1週間お腹の中にいてくれたら安心というところで主治医が「あと1週間なら大丈夫でしょう」と判断し服薬終了。
すると、その日のうちに陣痛がきてしまう。「もう来たの!?」と医師に言われるほどのタイミング。
病院は、障害が何かわからない状況での出産に対応するため、産婦人科医、小児科医、NICUのベッドが1床空いている状況での出産が望ましいと判断。そのため「24時間待って」と言われ、陣痛から24時間点滴をして過ごした。
「翌朝、体制が整い帝王切開で出産しました。」
陣痛はきていたけれど、長男に自分で生まれてこれる体力があるかわからず、帝王切開での出産となる。
なにもわからない中、介護育児スタート
生まれたときの長男は、「呼吸が安定しない」「自分でミルクが飲めない」状態。
中村さん自身は、溜まってしまっていた羊水が一気に抜けたことや出血の影響で産後すぐに体重が10キロ減り、しばらく動けなかった。
「産後すぐ、長男は栄養が取れるように管を入れ、呼吸も人口呼吸器を付けて安定させていた」
半年間、病名がつかず飛行機に乗せていいか主治医も判断がつかなかった為、東京に戻ることができなかった。
実家での介護育児がスタートすると、ミルクを飲ませてもすぐに吐いてしまう子だったため、「栄養を吸収させる為にミルクを飲ませた後1時間ずっと抱っこして同じ姿勢を保つ必要があった」と中村さん。
「胃袋も小さいから、1日7回くらいミルクをあげていて、授乳だけで1日が終わった。」
病院でたまたま息子を見かけた医師から「この子、遺伝子検査したほうがいいよ」と言われ、遺伝子検査をし、「CFC症候群(指定難病)」であることがわかる。
原因が分かったことで根本治療ができるかと思っていたが、CFC症候群は先天的な遺伝子の異常である為「今の医学では遺伝子を治すことはできない」と知る。
24時間の介護育児はふらふらの日々だった
中村さんは看護大学を卒業しており、現場経験はないものの医療の知識は持っていた。長男が生まれてから周囲は心配や不安でうろたえることばかりだったが、中村さんは案外冷静に構えて対応することができていたという。
それでも、当時2歳の長女の育児と長男の入院付き添いを繰り返す日々は目がまわるようで、毎日ふらふらだった。
「実家にいたので、長女の保育園のお迎えと帰宅後寝るまでは私は長女と過ごし、長女が寝てから夜、車を走らせ長男の病院へ行き、病院のベッドで長男の付添をしながら寝る日々。完全付添の病院だったので私が長女の対応の時は母や父に長男をお願いしていました。」
「一つのベッドに一緒に寝て、なにかあったらすぐにお世話して。」
当時は、昼なのか夜なのかわからない生活だった。
転機・問いかけの習慣
介護育児に忙殺される日々で人生最大の体重になっていた。自分のことを気にする間もなかった。
長女が保育園を卒園する時、卒園式に着ていく服を選んでいると「お客様はこちらのサイズですね」と店員に大きいサイズを勧められ、ショックを受ける。
「それがきっかけになってコーチングベースのダイエットを始めたんです。」
ダイエットの結果は3か月で-7キロ。別人のように変化した。
このダイエットで習慣づいたことが「自分への問いかけ」だった。
ダイエット中は1日3回、何を食べるか、食べ物を食べる自分に問いかけていた。その問いかけによって視点の変化、考えの変化が起こっていた。
「これってほんと?私がやらなきゃいけないこと?」と考えられるようになっていき、大変ということも言えるようになっていった。
どんどん固定概念が外れていき、育児や介護のことも「信頼できる人に頼めないか」「誰もいないのなら、頼める人を育てられないか」と考えが柔軟になっていった。
障害児は成長しても自立した生活を確保できない可能性がある
最近まで未就学の障害児は親との関わりが大切という考えがあり、いつでもどこでも親が子についていかなければならなかった。それがとても大変だった。
障害児は18歳までは特別支援学校に通うことができ、放課後デイサービスも受けることができる。
しかし、高校卒業と同時に「障害者(大人)」として、障害に合わせた就労に就く、施設に入る、在宅介護を受けるかの選択をしなくてはいけない。いずれにしても、学校とデイサービスで朝から夕方まで自宅を離れ自立した生活ができていた学生時代に比べると、同居する家族の負担が大きくなることが予想される。
今9歳の中村さんの長男は、入院などもなくとても落ち着いた日常生活ができている。サポートがあれば、一人で学校に行き帰ってくることもできる状況。
「とても自立した生活ができている」と中村さんも感じているそう。
「それなのに、あと10年で自分が今している仕事もできなくなるかと思うとぞっとした。」
周りのママ友が10年後には子供が自立してしまうと寂しがる中、中村さんは言葉を失った。
デンマークで福祉を学びたい
福祉大国・デンマークでは、障害者が自立して生活できるシステムが発達している。
例えば、大学では障害者が学ぶ上で困ることがあれば学生同士で助け合うシステムがある。ボランティアではなく、有償サービスとして確立しており、障害者が親に頼らず社会の一員として生活できる環境が整っている。
それを知った中村さんは「デンマークのやり方を学び、どうにか日本に持ってこれないか考えている。そのために親子でデンマーク留学をしたい」と語った。
親は自分らしく生きていい
「この子のために何ができるのだろう」「なんで私のところに生まれてきたのだろう」と、ずっと考えていた。
でも、我に返ってみれば、自分が親から「あなたのために」と言われたら迷惑だな、と思った。子供からしてみれば「頼んでない」こと。親だからといっても恩着せがましいのでは、と。
「あなたはあなた。わたしはわたし。一緒にできることはしようね、私は私で輝くから。」
そう思って今は行動している。
ディスカッション「イライラする旦那と向き合う一番の対策」
シェア会後に行われたディスカッションは、中村さんを交え参加者全員が意見を出し合うアットホームな時間になりました。シェア会とは違い配信をせず顔を見ながらお話ししたことで、参加者全員が自由に素直に意見を言える場になったようです。「戦略的に夫婦円満を…」という話も飛び出すほど、みなさんが夢中で話す姿が印象的でした。
ディスカッションテーマについてのなんくるまま的見解はこちら(インスタグラムに飛びます)
あとがき
聞く側が驚いてしまうほど、中村さんは育児介護のお話を明るくお話してくださいました。シェア会後、参加者からは「さらっと話してくれているけど大変だったんだと思う」「その強さや明るさがほんとに素敵!」などの声が多数ありました。感想を聞く中で、中村さんは「自分のことを悲劇のヒロインだと思っていたこともあったけど、その頃は何も楽しくなかった。だったら自分で楽しくしようと決めた」と話してくださり、苦難を乗り越えて楽しく自分の人生を歩んでいる「なんくるまま」そのものの姿を見せてくれているようでした。2024/10/24
美和さんと繋がりたい方はこちらから
人生の波を乗りこなし
自分らしく生きたい人を応援します!
YouTubeでシェア会の様子をチェック!